|
by humitsuki カテゴリ
以前の記事
2012年 01月
2011年 03月 2010年 04月 2010年 02月 2010年 01月 2008年 03月 2007年 11月 2007年 03月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 04月 2006年 03月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 04月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 お気に入りブログ
最新のコメント
ネットの通い路
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
2012年 01月 30日
「刑事控訴審における事実誤認の審査方法」(井戸判事・判例タイムズ1359・63)
事実誤認における審査方法についての「経験則・論理法則違反説」とは、第一審の事実認定に経験則・論理法則違反がある場合(又は不合理な場合)に限り、第一審に事実誤認があるとする考え方であり、控訴審は第一審の事実認定の過程を審査すべきとするものなのだという。 そこでいう経験則・論理法則の意味する内容とはどのようなものなのであろうか。前記論文は経験則にも確実性の大小に応じた広狭があることを示唆する。 さしあたり、第一審と控訴審との間で心証に食い違いを生じるパターンとして良く見られそうなものとして、①そもそも、第一審と控訴審の証拠構造のとらえ方が異なるケースと、②問題となっている争点が、規範的判断である法令の適用と不可分密接に関連しているケースを考えて見る。 ①の例としては、たとえば、共謀の有無が争点となっているケースで、原審は、直接証拠である自白の信用性によって結論を決すべきケースだととらえた上で、客観的証拠により裏付けられた被告人の行動と自白内容に看過しがたい食い違いがあるとして自白の信用性を否定し、無罪の判断に至ったところ、控訴審では、原審では自白の信用性の裏付けとして検討された被告人の行動自体が、自白の信用性を判断する補助事実としてのみならず、共謀の事実そのものを推認させる情況証拠(間接事実)だととらえた上で、これにより共謀の事実なくして説明のできない行動であると評価した場合が考えられようか。(もっとも、この場合でも、情況証拠から共謀が直接推認できるという説示にとどまらず、証拠上認定できる被告人の行動に沿わない内容の自白部分は信用できないが、共謀事実にについて自認した供述の根幹部分はなお信用できるという説示がされるであろうから、結局は自白の信用性という経験則の問題なのだと言ってしまえばそれまでか。) このような場合、原審の証拠構造のとらえ方を一応前提とした上で、その枠組みでの判断過程・推認過程に不合理がないかに限り、控訴審は審理判断できるという考え方まで経験則・論理法則違反説は含意しているのか。それとも、証拠構造のとらえ方も、経験則・論理法則の適用の一場面であるとして、控訴審のとらえ方と異なる場合にはこれが不合理といえる場合には事実誤認とできるとするのか。前者であれば、なかなか実務の支持は得られがたいように思われる(もっとも、証拠構造のとらえ方の誤りは、もはや手続違背の問題なのだと割り切るのかも知れない)し、後者であるとすると、証拠構造のとらえ方がどこまでが不合理といえ、どこまでが不合理とまではいえないこととなるのか、そもそも不合理と考えるのは、もはや控訴審独自の心証との食い違いを判断過程に反映させて説明しているだけではないのかという疑問も生じる。 ②の例としては、たとえば、薬物事犯の薬物の認識の有無について、第一審と控訴審の認定が食い違うことが考えられる。その内容について見ると、被告人は、目的物が特定の規制薬物であることについて、不確実ながらうすうす疑念を持つ30パーセントの認識を有していたはずだ、あるいはほぼ間違いないと推測している80パーセントの認識を有していたはずだ、という裸の事実認識の問題と、これを前提として規制薬物である相当程度の蓋然性である50パーセント以上の認識を有するものは「罪を犯す意思」すなわち故意があると評価すべきであるという規範的判断ないし法令適用の問題に分析できよう。もっとも、実際には故意の認定という一つの争点につき不可分の判断として評議されているのではないかと思われる。規範的評価の要素をぬぐいきれない形で示される故意の認定について、控訴審は自らの価値判断と評価をもって経験則・論理法則の基準とするのか。それとも、第一審が裁判員裁判である場合には特に、国民から直接選任された裁判員が法令の適用にも関与できる法構造を背景に、国民の法意識を直接代表する裁判員の規範的判断たる性質を含む規範的事実の認定は、ことに価値判断に関わる側面については尊重されるべきであるとするのか。 2011年 03月 04日
大学入試というのは,受験生個人の実力を測ってその合否を判定するもので,それ自体は保護に値する「業務」に当たるといわざるを得ない。
問題は「偽計」といえるかであるが,上記の大学入試という性質を考慮すると,その正常な遂行のためには受験生がカンニングなしで,つまり他者や許されていない書籍などの助けなしで単独で解答し,作成した答案が提出されていることが前提になっている。そこで,あたかも他者や物の助けなしに単独で作成したかのように装って,他者の助けを得て又は許されていない書籍を参照して作成した答案を提出した行為を「偽計」と見る余地はあろう。もっとも,これは他者の援助を得又は書籍等を参照したいわゆるカンニング答案を提出する際に,いわゆる不正行為をしたことを申告する義務を課するようなものである。(無銭飲食・無賃乗車を欺罔行為と捉える上で,それが支払う意思も能力もないことを告げるべきであるのに隠したと見るか,あたかもそれらがあるように装った作為と見るかの問題に類似する。)通常の国語的感覚に照らしても,「偽計」に当たるには,少なくとも積極的な虚偽を含むことを要すると解するべきなのではあるまいか。 信用毀損罪や電子計算機損壊等業務妨害罪の構造に照らすと,何らかの誤った情報・風説に基づいて,第三者や電子計算機が本来と異なる異常な判断・作用に至ることを予定しているようにも思われる。これとほぼ同一の構成である偽計業務妨害罪においても,大学入試の業務に異常を生じせしめるものが「偽計」であり「妨害」であろう。もちろん,不正行為による受験は,入試制度本来の目的を達し得ないという点では異常なものではあるが,その外形上,業務過程を変動させるような性質のものとは思われず,罪刑法定主義の観点からは一定の絞りが必要なようにも思う。(2011.3.5メモ) その後,報道に接したところによると,京都府警は,不正入試の確認等の業務に大学当局が追われたなど入試業務を混乱させたことを「業務の妨害」と捉えて構成しているとのことである。なるほど,それならば父性の手段で作成した答案を提出する行為もその手段たる「偽計」に当たり得るわけである。しかし,本条の構成要件の予定している「業務の妨害」とはそのような混乱まで含むものなのか。判例によって「妨害」は現に業務妨害の結果の発生を必要とせず,業務を妨害するに足る行為をもって足る(最判昭28.1.30刑集7.1.128)と相当に希薄化されているが,それでも妨害の対象たる業務過程自体はある程度限定されて然るべきように思う。(爆弾がしかけられている,と虚偽の電話をして入試を中止させれば,試験をして答案を採点し合否を判定するという本来の業務過程が害される。カンニングの場合,提出された答案を採点し,それに従って合否を判定するという本来の業務過程は外形上害されない。替え玉受験生がいる,と虚偽の電話をして,それが真実かも知れないと誤信した大学当局がその対応に追われた場合とのバランスは難しい。ただ,積極的な虚偽を申し述べるという行為をして混乱を生じさせているという点に着目するならば,やはり「偽計」自体に絞りをかける解釈を探るのが妥当な気がする。)(2011.3.6メモ) 2010年 04月 17日
〔説 例〕
窃盗(A事実)で現行犯人逮捕された被疑者甲が,勾留され,これが公訴の提起を経て被告人勾留に切り替わり,第一回公判期日において甲はA事実を認めた。ところが,甲は,常習累犯窃盗による直近の服役前科があった上,多数の同種余罪を供述しており,そのうち,3件の窃盗(BないしD事実という。)について,順次逮捕・勾留された。 1 その後,検察官は,BないしD事実について公訴を提起することなく,A事実につき,BないしD事実をも包摂する常習累犯窃盗の事実に期日間において訴因変更を請求した。訴因変更許可決定前に弁護人が甲の保釈を請求する場合,弁護人は,どの勾留に対して保釈を請求すれば良いのか。 2 その後,検察官が,BないしD事実について公訴を提起した(以下「本件各追起訴」という。)後,A事実につき,BないしD事実をも包摂する常習累犯窃盗の事実に期日間において訴因変更を請求して,裁判所がこれを許可した場合,BないしD事実に対する各勾留及び追起訴についてはどのような取扱いがされるべきか。 〔解 説〕 1 一人の被告人に対して複数の勾留が競合している場合,現実にその身柄を解放するためには,全ての勾留につき保釈等の裁判を得なければなりません(これは,いわゆる事件単位説に立って勾留の競合を認めた場合の帰結といってよいでしょう。)。ところで,常習一罪等は,それぞれ独立した各構成要件該当事実を包摂した構成要件となっていますが,この各構成要件に該当する各事実について勾留の裁判がされ,それぞれ公訴が提起され,その後,すべての訴因を包摂するような常習一罪の訴因に変更された場合,訴因変更の基礎となった訴因以外の各事実についてされた勾留の裁判はどうなるのかというのが説例1の設問趣旨です。 一つの考え方としては,BないしD事実については公訴の提起がされていない以上,「公訴を提起しないとき」(刑訴法208条1項)に当たるものとして,各勾留の裁判は当然に失効するというものです(さしあたり「当然失効説」と呼んでおきましょう。)。したがって,弁護人は,A事実の勾留に対してのみ保釈を請求すれば足りると言うことになります。 もう一つの考え方として,刑訴法208条の趣旨とするところは,被疑者を勾留した事件については,10日以内に被疑者の処罰を請求するか或いは被疑者の釈放をするかのどちらかの処置をとらなければいけない旨を定めたものであるから,その事実について訴因の追加の手続をすれば足りる(『増補令状基本問題 上』「常習一罪の各部分についての逮捕・勾留の可否」小田健司・207頁以下参照)とするもの(さしあたり「当然切替説」とでも呼んでおきましょう。)で,この場合,弁護人はAないしDの各事実に対する各勾留の裁判についてそれぞれ保釈を請求し,裁判所はこれらを許可する場合,保釈保証金の割付を検討しなければならないことになります。「訴因の変更,追加の請求を公訴の提起に準ずるものと解し,同法(刑訴法:筆者註)第60条第2項,第208条第1項の『公訴提起』とは訴因の変更,追加の請求をも含むものと解するのが相当である」とする裁判例(福岡高裁昭和42年3月24日決定〔高刑集20巻2号114頁〕)も同旨の見解に立つものと思われます。勾留の競合を前提に,訴因変更請求ないしそれに伴う勾留の裁判時において,後の勾留の裁判によって先行する勾留の裁判が取り消されたとするもの(但し,当初より常習傷害で勾留中に保釈された被告人が,さらに常習として傷害に及んで勾留され,公訴を提起されることなく訴因変更された事案・鳥取地裁昭和46年5月14日決定〔判タ263号278頁〕)や,裁判所があらためていずれかの勾留の取消決定をすべきとしてこれを取消し差し戻したもの(広島高裁松江支部昭和46年5月22日〔判タ263号278頁〕),前記福岡高裁決定で覆された福岡地裁昭和42年3月2日決定(前掲高刑集に収録)などの裁判例も,暗黙のうちに同旨の見解を前提にしているものと思われます(初学者のころ,これらの裁判例の判旨を一読して理解しづらかった覚えがあるのですが,その理由もここにあるのでしょう。)が,その理由はやはり明示の取消決定がされていない以上,包摂された事実についての勾留の裁判を無視することにためらいを覚えたことにあるのではないかと推察されます。 私見としては,当然失効説に立つべきと考えています。なるほど,訴因の変更ないし追加も,公訴の提起と同様に一定の事実につき検察官が訴追意思を明示したという点では共通しますが,そもそも訴因変更の効果は裁判所がこれを許可するか否かにかかっているのであって,検察官処分権主義ないし不告不理の原則により一つの事件につき一つの手続をいやおうなく創設する効力のある公訴の提起という書面による訴訟行為を,前記のような効力が不安定で必ずしも書面によるとは限らない訴因変更請求で代替することには無理がありますし,当然切替説は刑訴法208条の文理にも反しているという難点を抱えているからです。 それならば,訴因変更請求ではなく,裁判所の訴因変更許可決定をもって公訴の提起と同視して,その時点でBないしD事実について被告人勾留への切替えを認めれば良い(さしあたり「許可切替説」とでも呼んでおきましょう。)のではないかという指摘も考えられるところですが,訴因変更許可決定が被疑者勾留の満期までになされなかった場合,その間の勾留の効力の説明がつかない(認めれば,厳格な期間制限との整合性が取れないでしょう)し,一手続を維持したままで審判対象を手直しする訴因変更であらたに一事件につき一手続を開始させる公訴の提起を代替するには重みが異なり,何よりもそこまで不自然な解釈をする実益に乏しいといわざるを得ません。 (なお,当然切替説ないし許可切替説に立った場合,訴因変更の請求ないし許可決定によって,先行するBないしD事実という余罪についての勾留が黙示に取り消される,あるいは当然に失効すると解する見解〔前記裁判例参照〕も考えられますが,実定法上の根拠に乏しいことは否みようもなく,職権又は請求により明示の取消決定を要するというのが実務感覚に近いと思います。弁護人は,明示の取消決定がない限り,一応すべての勾留に対して保釈を請求する手続的負担ないし危険を一方的に負うことになります。) 2 説例2の場合,BないしD事実についても,本件追起訴を経ている以上,各被疑者勾留がそれぞれ被告人勾留に切り替えられていることになります。そして,前記鳥取地裁決定や前記福岡地裁決定のように,訴因変更請求又はそれに伴ってなされた勾留の裁判において,他の事実の勾留は取り消されたという見解に立つならば,勾留の競合が生じる余地に乏しくなりますが,少なくとも明示の取消決定もせずに勾留の裁判を無視するというのは実務感覚として違和感の拭えないところでしょう。 そうすると,前記広島地裁松江支部決定のように,被告人の身柄確保のための勾留の裁判を一つ確保した上で,その余の各勾留の裁判について明示の取消決定をすべきということになります。そして,勾留の基礎となる事実はなるべく被告人の現状の立場を反映したものであることが望ましいところ,裁判所としては,訴因変更許可決定後,公判期日において,変更後の訴因について被告人の認否を聴いた上で,変更後の訴因に勾留を切り替えた上で,これまでのAないしD事実に対する各勾留の裁判をすべて職権で取り消すのが最も妥当な処理と思われます。公判前整理手続期日などで訴因変更が許可されてから,第一回公判期日が終わるまで時間がある場合,その間どうするかは悩ましい問題ですが(保釈等を視野に入れて,可能な限り身柄関係は早期に簡明な処理をすべきというのも,一貫した考えだと思います。),あえてその期間中に勾留を一本に絞るのであれば,A事実による勾留を維持した上で,他の勾留を取り消すのが素直な考え方でしょう。その担当を受訴裁判所にするのか令状担当裁判官にするのかは,予断排除原則との関係で微妙な問題を含んでいます(刑訴規則187条1項が,公訴提起後第一回公判期日までの勾留に関する裁判を,受訴裁判所以外の令状裁判官に担当させる旨定めているのは,受訴裁判所が勾留に関する裁判での疎明資料から予断を得る恐れを排するためです)が,やはり訴追対象としてBないしD事実も審判対象たる訴因の俎上に載せられた以上,審理を担当している受訴裁判所がこれらを取り消すべきというのが私見です(拙ブログでこれまで論じてきたように,暫定的な疎明を得る令状審査において本案の心証を取ることは禁じられているところ,第一回公判期日後であれば,受訴裁判所は,たとえ証拠調べが未了の証拠であっても,疎明資料として精査をせざるを得ないというべきと考えますが,単に審理経過を考慮して勾留を取り消すだけであれば,さらに弊害は少ないといえます。)。 追起訴については,訴因変更によって訴追対象が一つにまとめられた以上,起訴自体も当然に併合され,吸収されて合一になったとして特段の処理は不要と考える余地もないではありません。しかしながら,公訴の提起とは,前記のとおり検察官処分権主義ないし不告不理の原則に則って,一事件について一手続を開始する厳格な様式行為であるところ,一事件について公訴の提起に重ねて訴因の変更ないし追加という形で検察官の訴追意思が二重に訴訟行為をもって表明されている事態は,一事件一手続の原則という刑訴法の基本構造に関わる原則にそぐわないものであり,何らかの方法で解消されるべきと思われます。一事件一手続の原則とは,一つの事実は一つの刑事手続きで処理されるべきであるという原則であり,一つの事件について矛盾抵触した複数の判決等の裁判(国家意思)の存在を許さない(事件単位の原則などもそのあらわれといえましょう。)ばかりでなく,保釈等の対象となる勾留の裁判を明示するなど法律関係を簡明にして被疑者・被告人の防御に資する効果を有するなどしています(香城敏麿教授は一事件一手続の原則を「同一事件に対する訴追手続は,同時に二つ以上存在してはならず,二つ以上存在するときは,二重起訴として一つに解消されなければならない」と定義しておられますが,基本的にこれと同趣旨です。「訴因制度の構造」『香城敏麿著作集Ⅱ』261頁以下)。本件追起訴を見過ごして変更後の訴因に対して判決することは,後に判断の脱漏との誹りを招く恐れがあります。 裁判所としては,まずは同一性のある公訴事実につき二重に訴追意思を表明した検察官の責任において,公訴の取消し(刑訴法257条)をするように促し,検察官がこれに応じたら弁論を分離して(もっとも,併合されていればですが)公訴棄却決定(刑訴法339条3号)をするのが最も据わりの良い処理です。 しかし,何らかの事情で検察官がこれに応じない場合は,「公訴の提起があった事件について,更に同一裁判所に公訴の提起があったとき」(338条3号)として公訴棄却の判決をすることになるのではないかと思います。公訴事実の同一性があるA事実について公訴の提起があった点をとらえれば,その後CないしD事実を含めた訴因に変更されたことに照らし,「公訴の提起があった」と見ることが(技巧的との非難はあるにせよ)できるからです。ここで,麻薬取締法違反の常習営利の一罪を構成する行為につき追起訴状が提出されても,これがその一罪を構成する行為で先の起訴状に漏れたものを追加補充する趣旨のものと認められる以上,338条3号に該当しないとする最高裁昭和31年12月26日大法廷判決との抵触が問題となり得ますが,この大法廷判決は未だ追起訴に係る事実を包摂した訴因への変更がなされていない事案に関する判断であり,事実関係が異なるものとして抵触はないと見ることができるでしょう。 2010年 02月 21日
「患者の音調に二種類あることを書いたことがあるが,サリヴァンがよく患者自身に告げていたことだったのを最近になって知った(小文「アメリカにおけるサリヴァン追認」『みすず』1979年6月号)。彼は,『君の訓練〔トレーニング〕の声と君の希み〔のぞみ〕の声とがある』といっていたそうである。おそらく,『訓練の声』とは,音域の狭い,平板な声だろう。・・・一般に論弁的になる時,人間の声はそうなるがちである。・・・
作曲家神津善行氏が書いておられたところによると(昭和54年7月の『週刊朝日』だったと記憶する),音域の広い人と狭い人とでは,同じことを語っても,相手に受容される程度が大幅に違うそうであり,後者が反発をまねくさまは,氏のようなよい耳を持っている人が横から観察していると,実に驚くほどだそうである。」(中井久夫「精神科治療の覚書」139-140頁・日本評論社1982) 地方の裁判所を見ていると,民事部の合議体によって,事件がすんなり和解で落ちる割合が,けっこう違うような気がします。ここぞという時に,気合いのこもった説得で一気に和解をまとめあげてしまうある部長に,冗談めかして「和解のコツは,部長のように裁判官が丹田〔へその下辺り〕に力を込めることですね。」と申し上げたことがあるのですが,意外とそこらへんに真相はあるのかも知れません。 書面主義に毒されている我々実務家が見落としがちなことですが,「場の空気」を演出する裁判官をはじめとする法律家の「声色」も,訴訟の帰趨(殊に和解の成否)や当事者の納得(「法において敗れはしたけれど,あの裁判官はこちらの情を酌んでくれた。」)に無視できない影響を与えている気がするのです。 「嘘の効用」の派生型といわれてしまえばそれまでですが,そういえば10年近く前,「声にかけられたストレス」でその発言の真偽を見抜くと称したイスラエルのソフトパッケージが店頭に並んでいたのを思い出します。開発者の発想にも,人間の表情は顔だけでなく声色などによって総合的に形作られるということがあったのかも知れません。思えば,職業的な詐欺師も,声の表情が持つ信頼感や説得力をうまく使っているのでしょうし,それは当事者に対する裁判官や顧客に対する代理人の用いる技能にも密接に関連しているのではないかと思われます。 それは,民事事件のみならず,近年の裁判員裁判で強調される「裁判員に理解できる分かりやすい尋問ないし弁論」にも通じるところがあるでしょう。情のこもらない平板な尋問は,余計に尋問者の意図が汲み取りにくく,証人の応答も平板で無表情なものになりがち(そういう主尋問もある気がします)な印象があります。ひどいときには,「この事件と何の関係があるんですか!」と極端に警戒されて過度に防御的になられ,無意味なところで尋問が暗礁に乗り上げることも,ないとはいえません。対して,深みのある声での尋問では,証人・被告人もつい誠実さと安心感を覚えて気を許し,ほろりと「本音」をこぼすことも,ままあるのではないでしょうか(これは民事でも同様です)。 弁論も,官僚的に平板なアクセントで述べられても,裁判員は手元のメモに目を落とすだけで,「良く分からないことを早口でしゃべられた」と思うだけなのではないでしょうか。 家事調停や少年審判でも,事情は似ているでしょう。特に社会経験のない少年の心を開かせるには,「この大人だったら,自分の気持ちを分かってもらえる」という信頼感を持たせることが肝要でしょうが,そのとき真摯さや誠実さを感じさせるのは,言葉の内容ばかりでなく,その声の抑揚やリズム,温度にも似たその「声色」も大きな影響があるような気がしてならないのです。 我が国の訴訟法が直接主義・口頭主義(民事は形骸化してますが)を旨としているのも,憲法82条の公開裁判の保障とは別に,当事者の納得や手続の感銘力による国民の信頼について,裁判官ら法律実務家の「肉声」をもって厳粛な空間を演出するのが効果的だという歴史的に体得された知恵と見る余地もあると思うのです。ハーバーマス的とも言える洗練された論理で,当事者の交渉の場の設定を見る「第三の波」的な訴訟観は,たんに論理による交渉ばかりでなく,このような情動の交換の場としての裁判と,それによる司法への信頼感・社会の安定をもその理論の背景に含んでいると見ると,より一層豊かな解釈につながるような気もします。 2010年 01月 29日
少年法の構造は,職権主義をその特徴とし,訴訟事件のような対立当事者の間で中立公正な裁判所が判断を下すというような制度ではなく,審判手続全般にわたって裁判所が責任を持ち,裁判官と少年との対話を通じて少年の内省を促し,終局処分を決するという流れを想定しているということができます。
そして,家庭裁判所に係属した少年事件については,原則として家庭裁判所調査官による社会調査(書面照会や少年及び保護者との面接調査)が行われ,家庭裁判所調査官の社会調査の中で行われる保護的措置(訓戒や奉仕活動の勧告など)で十分だと判断されれば,審判不開始決定がされてそのまま事件が終結するのに対し,権威を軽んじ内省が深まらないといった少年に対しては,審判開始決定をして審判期日を指定し,厳粛な審判廷において裁判官から直接訓戒をして,その手続の重みと法の権威をもって自覚と内省を促し,不処分又は保護処分決定に至るところ,これを筆者は「少年審判手続の感銘力」と個人的に呼んでいますが,これは前記のような職権主義を採用した少年法が期待するところであるということができましょう。 教科書的にはこのような運営が理想といえますが,このような形における審判手続の感銘力は,少年が非行事実を認めて争っていないこと(このような事件を自白事件と呼んでいます。)を前提とするものです。 では,少年が,非行事実を認めず,これを争っている場合(いわゆる否認事件)は,審判手続の感銘力はどのように扱われるべきなのでしょう? 実は,これまでの少年審判手続は,自白事件を前提としており,少年が事実関係を認めず,これを争う事態はそれほど想定していなかったようなのです。戦前の旧少年法では,行政機関である少年審判所が保護処分を決するものとされていましたが,そもそも保護処分は利益処分であるという理解とともに,否認事件は送致前の検察官の裁量で刑事手続きに振り分けられるため,否認事件というものを想定した制度設計にはなっていなかったことが窺われます。 戦後,少年事件の振り分けについては家裁先議が採られ,家庭裁判所の裁量で保護処分と刑事処分を振り分けることとしたために,少年審判手続で否認事件をも扱うこととなりましたが,制度自体は旧少年法同様,自白事件を念頭においた後見的な裁判所による職権主義的な制度設計が引き継がれることとなりました。 このような職権主義的な審判構造では,一件記録を検討して一応の心証を形成した裁判官が,「反省せよ」と迫っても,少年は「やってもいないことを反省できるわけがない」と水掛け論になって内省につながらないばかりか,裁判所が少年の責任を追及する形となって,中立公正な立場と矛盾する危うさが生じます。そこで,先の法改正では,事実認定に関して検察官関与の制度が導入されましたが,対象事件が限定されているため対象外の否認事件では問題の解決になりません。 成人刑事公判の感銘力を参考に考えると,否認事件ではあまり裁判所は説諭をせず,淡々と判決を言い渡すことが多いような気がします。これを参考に考えると,少年否認事件においても,法が本来予定しているような裁判官の人格の感化力を及ぼすと行った感銘力については,その追求を放棄するしかないと思っています。 少年否認事件における,審判手続の感銘力とは,まず第一に,少年に適正な手続の下で,十分に言い分を述べ,防御する機会を与えられたという審理過程への納得感に基づくものといえましょう。ある付添人の回顧によれば,ある否認事件で,自分に不利な証言をする親友に接して,その少年は怒るどころか,「あいつのいうことなら間違いない。あいつが嘘をつくはずない。」と漏らしていて,付添人が脱力したということがあるそうですが,必要にして十分な審理過程が持つ説得力というものを物語っていて興味深いものがあります。(弁護士である付添人が,いかに少年の言い分を真摯に受けとめ,誠実に主張立証を尽くして行くかにかかっています。) 第二に,裁判所が,少年にだまされない,ということも肝要です。これは,疑わしきは少年の利益にという適正手続原則の少年事件における反映と緊張関係に立つものですが,信用できる証拠の証明力の評価をなおざりにして少年の肩を持つ事実認定が適正手続にかなうわけではありません。権威を軽んじ,指導を聞き流して身勝手に法や規範を踏みにじる少年に対し,その嘘やごまかしを毅然と斥けることは,社会を甘く見ていた少年にわがままが通用しないことを教え,自らのあり方を省みるよう導く一助となることでしょう。「ああ,やはり嘘は通用するものではないんだな」という実感こそ,自らのあり方や責任と向かい合う第一歩となるのではないでしょうか。 結局のところ,手続と判断の説得力こそ少年否認事件の審判手続の感銘力の拠り所であり,少年の甘えやおごりを厳しく斥ける父性原理を裁判所が,それを前提として対話を通じて内省を深めるのが少年院の法務教官をはじめ処遇関係機関の役割であると割り切るのが私見であります。 2008年 03月 04日
〔以下メモ書き〕
短期1年以下の懲役に当たる罪を犯したという被疑事実で勾留された者が,捜査を遂げた結果,短期1年以上の懲役に当たる罪を犯したものとして公訴を提起され,(求令起訴されることなく)当初の被疑者勾留が被告人勾留に切り替えられた場合, (1) 保釈請求に対して,刑訴法89条1号〔被告人が死刑又は無期若しくは短期1年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪を犯したものであるとき。〕の必要的保釈除外事由があるものと認定して良いか。 (2) 勾留更新に際して,刑訴法60条2項但し書で準用する同法89条1号の勾留更新回数制限除外事由(以下,単に「勾留更新事由」という。)があるものと認定して良いか。 【検 討】 具体例としては,携帯電話の詐欺未遂で勾留された被告人が,店頭の窓口で身分証明文書として偽造運転免許証を使用していたため,偽造有印公文書行使を付加して起訴された場合や,もっと極端な例として,火事場から逃げ出すところを見つかり住居侵入で勾留された被告人が,その火事場で家人を縛り上げて金品を強取し,顔を見られて口封じのために放火して焼死させたとして現住建造物等放火,強盗殺人を加えて起訴された場合(何らかの事情で求令起訴が失念されていた場合)などが考えられよう。 もちろん,被疑者勾留は,起訴によって当然に被告人勾留に切り替わるものであり,その際,身柄拘束の当否・理由について実質的審査が加えられるものではないから,受訴裁判所〔又は裁判官〕としては,あくまで令状審査のあった被疑者勾留時の罪名を基準にして,権利保釈除外事由・勾留更新事由を審査してゆくべきであるとして,消極に解する見解が考えられる。 他方で,権利保釈除外事由・勾留更新事由は,事件単位の原則の制約があるとはいえ,現実の被告人の身柄確保の必要性(審理への出頭確保・刑の執行確保の観点からの逃亡の虞)に応じて具体的に判断されるべきところ,被告人が現実に直面している処罰の虞は起訴罪名に応じたものであるから,これに依って判断されるべきとして積極に解する見解も考えられる。 権利保釈除外事由については,注釈刑事訴訟法の該当箇所などを紐解くと,積極説によっており,おそらく実務の大勢もこれに準じた取扱いなのではないかと推察される。 そして,勾留更新事由も同様に積極説で運用するのが相当ではないかと思われる。その理由は,第一に,刑訴法60条2項但し書の勾留更新事由は,同法89条各号所定の権利保釈除外事由をそのまま準用しており,両者は統一的に解釈すべきであり,第二に,前記のとおり,勾留更新事由は,起訴罪名に応じた現実の身柄確保の必要性に応じて判断されるべきこと,第三に,受訴裁判所(又は裁判官)は,保釈審査・勾留更新審査時に,一件記録を検討して各事由の有無を判断すべきものと解すべきところ,そう解する限り裁判官の令状審査による手続的保障は保たれていることが挙げられよう。 消極説は,人権保障に手厚い側面も有する一方,起訴後は被疑者勾留時の心証を引き継いで,(その後の事情の変更だけは考慮するにしても)その上に上記各事由の判断を加えるといった考え方と整合的な一面もある。 【付 記】 以前,第一回公判期日において書証が全て不同意となり,実質的な証拠調べが始まらない段階で,検察官が接見等禁止決定の請求をした場合,公判裁判所としては不同意書証から成る一件記録を検討すべきなのか否かなのを検討しましたが,前記のような考え方を取る限り,一件記録の検討はやむを得ないという考え方を採用するのが整合的とも思われます。 接見等禁止決定に限らず,勾留更新・保釈等も,究極的には,公判での証拠調べとは別に,不同意書証を含めた疎明資料としての一件記録の精査の上で判断するのが最も論理的に一貫しているものと考えられます。もっとも,起訴状一本主義との関係で,令状審査で形成した心証を,いかに公判での心証形成から切り離すかは問題です。公判前整理手続き導入によって,やや起訴状一本主義との緊張関係も説明しやすくはなったのかな,というのが率直な感想です。 2007年 11月 07日
先日,某地裁本庁において行われた,強盗致死事件の裁判員模擬裁判を見学する機会がありました。事案としては,一般に「鈴木一郎事件」と俗称されているもので,地方からアーティストを夢見て上京してきた当時20歳の被告人が,生活費にも窮した挙げ句,タクシー強盗を試みて運転手をナイフで刺して死なせてしまうというものです。
結論としては,酌量減軽の上,懲役28年(求刑:無期懲役)だったのですが,その結論に至る経緯で目を引いたのは,職業裁判官の方々のご意見の内容でした。 ある裁判官は,被告人はまだ若いところ,40代で出られるような量刑にしないと,更生の意欲も失ってしまうかもしれない,という趣旨の発言をしておられたのが,特に印象に残っているのですが,特に被告人の更生といった面が強調されるうちに有期懲役刑に減軽する方向で議論が方向付けられました。 これまで,量刑相場というのは,応報刑論を柱にして予防の見地を加味しつつ調整するという刑法理論を背景に,まず,犯行動機,犯行態様,結果といった過去に何をしたのかという客観的な観点から量刑の幅が大体画され,その中で更生環境や更生意欲などを含めた雑多な一般情状で微調整するという感覚だったのではないかと理解してきていました。そして,被告人の更生の意欲や見通しといった要素単体で,無期懲役刑か有期懲役かといった刑種の選択まで左右されることはまず希だったのではないかという実感の中で,上記のような議論を職業裁判官がしていることに強く興味を引かれました。 このような議論が許容された背景としては,いくつか理由の考えられるところですが, 1 もともと,無期か有期かという極限の量刑では,被告人の更生といった特別予防的要素も相当の重みをもって刑種の選択に影響していた(つまり筆者の見込み違い) 2 裁判員裁判では,一般人の常識的感覚(無期では更生の意欲を失ってしまうので,有期にして立ち直る余地を与えるのが被告人のためではないか等)をむげに否定することは許されず,裁判官の隠れた量刑理論も(無意識的に)変容を余儀なくされた。 3 平成16年の法定刑引き上げで,有期懲役刑の上限は20年から30年にまで引き上げられているところ,このような長期の量刑では,被告人の更生の見込み・意欲といった要素も次第に重みを持って判断に影響する。 といったことが考えられますが,まだ何ともいえないところです。 2007年 03月 17日
(以下雑記)
裁判員裁判を見据えて職業裁判官と市民の量刑感覚を分析した司法研究も間もなく上梓されるものと思われるが,筆者が模擬評議などを拝見して得た印象を踏まえても,得てして一般人は特定の量刑因子に重きを置いて刑を量定する傾向が顕著であるといえよう。 そして,これまでの模擬評議では,裁判官が他の事情も指摘して,総合的な判断をするようにそれとなく促すといった流れが大方であったのではあるまいか。このような傾向は,専門家と非専門家の協働という裁判員制度の本質から不可避であって,今後ともどうようの場面が見られるだろう。 たとえば,「振り込め詐欺などの同種事犯が多発している。」「被告人は十分に反省しており,また犯罪を犯すとは考えられない(あるいは,規範意識の乏しさが顕著で,また犯罪に及ぶ可能性が高い)。」といった事情を極端に重視して,量刑相場を大きく離れて処断刑の上限ないし下限近い量刑を主張するなどである。 もっとも,それらの量刑因子にそれだけの決定的な重みを与えて評価すべきでないという価値判断には,単に総合評価に止まらない意味があるように思われる。 すなわち,「同種事犯が多発しているから厳刑を」という考え方は,刑の威嚇力を主に考える一般予防論に整合的な考えであるし,「被告人の規範意識」を重視する考え方は,特別予防や社会防衛論につながる考え方とも取れる。 これに対して,従来の実務は,あくまで動機・経緯,犯行態様,結果など過去の犯情を回顧的に評価するという手法を取っているが,これは基本的に相対的応報刑論に積極的一般予防論を組み合わせた刑法理論が背景にあると考えることもできるものであった。 裁判員制度による国民の司法参加に意味があるのであれば,それは各量刑因子の比重にとどまらず,なぜそのような量刑因子を重視するかの説明を通して背後にある刑罰の目的論まで踏み込んだ議論が必要なのではあるまいか。 これまで「裁判官の量刑は軽すぎる」旨の批判があったにも拘わらず,裁判員制度はこれまでの刑事裁判を概ね妥当な運用がなされてきたとの評価を前提に,国民の感覚を量刑に反映することをも主眼としているのであるが,市民感覚を量刑に反映させるというのであれば,結論だけでなくその背後にある刑罰の目的論にまで立ち入って従前の量刑相場や実務の考え方を明らかにして国民の批判を仰ぐべきではないかと思う。 「量刑は刑法理論の縮図」とまで言われているが,そうなると(意識的にせよ,無意識的にせよ)実務の依ってきた刑法理論について,健全な国民の法感情による批判的検討は避けがたいし,避けるべきでもあるまい。 このような考え方を取ると,刑罰の目的論を含んだ法令解釈権が裁判所の専権とされていることとの関係が問題となり得よう。裁判員法は量刑に関して裁判員の関与を認めるが,そこにおける刑罰の目的論を含んだ刑法理論の対立は,職業裁判官の刑事実体法の解釈理論にも徐々に大きな影響を及ぼすことも,あり得ないではない。 2006年 12月 21日
「ロースクール 未修者は,6~7年制にすべき by米倉明教授@戸籍606号75頁」
基本的に新規学卒者しか労働市場のなかった我が国では,大卒後6年も7年も経ってから法曹にもなれないとすると,完全に社会から脱落者の烙印を押されかねません。(最近ではそれなりに事情も変わっているようですが,社会でのキャリアのない院卒がどれほどの厚遇を受けられるのか,疑問があります。) 法曹の「質」なるものを,法科大学院における教育課程を強制するという「規制」によって確保しようと言う,有る意味時代の流れに逆行する話の一環ではありますが,仮にそのような規制が法曹の質確保のために必要だとしても,法曹育成のためのカリキュラムを受ければ良いのであって,最低でも何年以上は法科大学院での教育環境に浸からなければ良い法律家にはなれないという話ではなかったと思われます。 そうすると,まず大学の法学部を廃止して法科大学院(もはや大学院ではないが)に一本化し,卒業年度も規制しないで完全に単位制にでもしなければ,まともな人材を法曹界に確保することすら難しくなるんじゃないですかね。最終的に法律家を新司法試験というテストで選ぶ以上は,良い法曹になるのに「必要な」だけの単位を取得し,学部試験と新司法試験をクリアしさえすれば,何年間ロースクールにいたかということは無関係に,規制の目的は達せられましょう。 もっとも,6,7年かけなければ到底消化しきれないような必修単位を課すこと自体に,今度は無理が生じてきそうですが。 2006年 11月 15日
裁判員模擬裁判はその後各地で重ねられているようですが,事案によっては公判前整理手続において証拠も相当絞り込まれ,これまで主張されてきたように,平均的な裁判員の情報許容量の上限を意識して,主張立証すべき間接事実自体もそれなりに意識されているように見受けられるものもあります。
このような努力は,審理を短縮して裁判員の負担を耐えられる限度に押さえるためには必要不可欠なことであり,歓迎すべきであるといえます。その反面で,そのようにして切り捨てられ,主張立証されずに終わった事情は,本当に事実認定上無意味で不要な事実と割り切るべきなのか,迷いがあるというのが筆者の率直な感じ方です。 それというのは,判決文の(事実認定の補足説明)に挙示されていない事情や証拠であっても,無意識のうちに裁判官の心証形成に影響を与えているものが少なからずあるのではないか,という気がするからです。 例を挙げろといわれてもなかなか困るのですが,例えば,強窃盗などの財産犯で犯人性が争われている事案における借財の存在ないし被告人が資金繰りに窮していたことなどです。おそらく,教科書的な刑事事実認定の説明では,財産的利益というのは誰でも欲しいものであるし,お金に困っている人が必ず強窃盗に及ぶというものではないので,これを独立した間接事実として動機面から犯人性を推認することまでは控えるのではないかと思われます。 しかし,これが評価の難しい目撃者・被害者の犯人識別供述と抱き合わせである場合は,全く心証に影響しないのでしょうか? 資金繰りに窮していた事実のみならず,被告人がかつて近所に居住していて現場に土地勘がある,といったやはりそれ単体では取り立てて推認力のない事情なども重なれば,相俟って心証形成上,無意識のうちに相当の重みを持っているのではないかという気もするのです。 有罪方向ではなく,無罪方向の事情の場合は,これが相当の重みを持っていることは余り異論がないと思われます。有名な鹿児島夫婦殺し上告審判決(最判昭57年1月28日刑集36巻1号67頁)でも,捜査段階の自白によれば,被告人がさわったとされる茶碗や包丁から被告人の指紋が検出されていない事情などが自白の信用性を否定する根拠の一つとして取り上げられています(事件関係人の指紋は検出されていたようです)。 筆者はしがない一法律家ですので,裁判長などという大役の経験などあろうはずもないのですが,司法修習生時代に模擬裁判をした際,一応被告人を犯人とする証拠はあるのだけれど,合理的な疑いを容れない証明がなされたというべきかやや悩ましい事案(通勤電車内のスリ事案で,被害直後に被害者は被告人を見失い,身柄を確保した際には盗まれた財布は逃走経路付近に投棄されていた。)を検討する中で,電車内の被告人の行動・立ち位置,声をかけられた後の被告人の逃避行動,身柄拘束後のささいな弁解内容の各点が,無罪と見る上では不自然といわざるを得ず,仮に被告人が犯人だとすればすべて合理的かつ説得的に説明できることに思い至り,終局的に有罪を確信でき,「これが一般人の常識に照らして合理的疑いを容れない証明か」と実感した経験があります。いわゆる心証の雪崩現象というものでしょう。 「量刑はバランス,無罪は嗅覚」と言われますが,供述の信用性の判断や情況証拠の積み重ねといった必ずしも決め手のない証拠関係において,すべての事情が被告人の有罪を示唆しており,一見これに反するような事情も検討すればいくらでもその他の可能性が考えられるとなった場合,これといった推認力のない事情も積み重ねによって,証拠の証明力の判断や有罪無罪の結論に相当な重みをもって影響を与え,裁判官の確信を支えているのではないでしょうか。 よく評議で,裁判員の方が,「もう少し○○の点について証拠があれば,自信をもって判断できるのですが。」などとおっしゃるのを目にするのですが,仮にそれが検察官の立証や事実認定の補足説明の支柱とはならない事情に過ぎない場合であっても,あるいは,確信を得るために必要な事情があることを嗅覚で感じ取っているのかもしれない,とふと思ってみたりします。 いずれにせよ,ほぼ使える限るの時間を情報の摂取と検討につぎ込める職業裁判官だけによる審理に替えて,そもそも事件の審理・検討に使える時間が極めて限られており,その時間的制約の中で摂取できる情報の量も自ずと上限を画されている裁判員との合議体による裁判を実施する以上,このような「それ単体では見るべき推認力のない事情」は立証を絞る過程で切り捨てられざるを得ないのでしょうが,それによって得られる確信が何となく平面化した深みのある裏付けを欠いたものになり,ひいては事実誤認につながるのではないかという一抹の危惧を払拭しきれないのが率直なところです。 〔追 記〕 某ボツネタのコメント欄で,複数のコメントがされているようなので,若干補足しておくと,、「無実を確信でき」ず,換言すれば,「合理的な疑いを超えて無実を証明できなかった」から有罪認定に至ったのではないかとの指摘がされていますが,その模擬裁判の記録では,少なくとも理屈の上から言えば被告人が犯人との推認は動かし難い証拠関係(記録が記録ですから詳述はできませんが)となっており,残された問題は「果たしてこれだけの証拠で被告人を有罪認定してしまって良いものだろうか。」という逡巡,言い換えれば,裁判官の「主観的確信」を形成できるかという良心の問題だったのであって,言葉の問題から言えば,「一般人の常識的な感覚から見て,なお被告人が犯人でないかもしれないという合理的な疑い」すらないと良心にかけて断定できるかという問題に突き当たり,全ての状況が有罪を示唆することによってそのように断定できると確信できたという趣旨です。 さらに言うと,上記のような「背景的事情」を直接罪体の認定に用いようとしても,それを(事実認定の補足説明)に明晰な論理で言語的に表現することはなし難いと思われるので,心証形成の上で重みがあると言っても,分析的にいえば既にある立証の柱(犯人識別供述,着衣に付着した被害者の血痕等)の信用性や証明力を判断する上で,いわゆる補助事実として決定的な作用をするのではないか,という印象があります。 気が向いたら,背景的事情と心証形成について,後日また言及したいと思います。
|