カテゴリ
以前の記事
2023年 12月 2019年 10月 2018年 12月 2018年 11月 2012年 07月 2012年 01月 2011年 03月 2010年 04月 2010年 02月 2010年 01月 2008年 03月 2007年 11月 2007年 03月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 04月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 04月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 フォロー中のブログ
ネットの通い路
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2006年 04月 22日
ここしばらく,全国各地で刑事局から送られてきた事件記録などを素材に裁判員の模擬裁判が実施されており,裁判所のみならず,弁護士会,検察庁の三庁そろって裁判員制度のための良き訴訟慣行を模索しつつある。
特に,全面的に挙証責任を負っている検察庁は,プロジェクターを活用したり,冒頭陳述,論告の口頭化の訓練を行ったり,実際の実務でも訓練を重ねている。 ところで,これまでなるべく法律実務とは関係のない人たちを模擬の裁判員(以下,たんに「裁判員」という。)として合議をすると,議論が訓練を積んだ法律実務家とは若干趣を異にする筋道を辿ることがある。 特に目立つのは,裁判員の議論では証拠の信用性という観点が欠落しがちであることである。 つまり,裁判員は,えてして検察側証人の語るストーリーと弁護側証人や被告人の語るストーリーを記憶の中で混同し,それぞれのストーリーで印象的な部分をつぎはぎしたストーリーを意識せずして作り上げ,それに基づいて事実認定(例えば殺意の認定)や法的評価(例えば正当防衛や過剰防衛)を行う傾向にある。これでは,重要な間接事実や評価根拠事実(ここでは要件事実の用語を借りて,正当防衛の急迫性や相当性を基礎づける事実などをいう。)の認定を誤り,ひいては要証事実の認定や法的評価を見誤る恐れが大きいといわざるを得ない。 その原因について考えてみると,まず第一に,証人や被告人の語る供述内容が雑ぱくで情報量が多すぎ,裁判員の記憶の限度を超えていることである。そのため,いずれの証人がどんなストーリーを語ったのか把握仕切れず,その相違点も分からないまま混同してしまうのである。対策としては,必要最小限の情報を聞き出す尋問技術ということになろうか。 第二に,双方の言い分の食い違いが必ずしも争点として明確に提示され,あるいは意識されておらず,供述内容と争点の関連性が分からないまま証言を聞いていることである。争点の判断に必要な情報を取捨選択するには,何が争点でそれを誰のどのような供述で認定すべきか明確に予測し,意識している必要があるが,事実認定の訓練を受けていないものにとってその負担はかなり大きかろう。対策としては,争点を明確にするための主張対照表や,予測される供述内容の提示である(どこまですべきかは予断排除の原則との関係で検討の余地があろうが。) いずれにせよ,供述要旨ではまかなえない細部(細かい補助事実)を事実認定者の面前に提示するのが人証の意義であり,直接主義の本旨であるとすれば,当事者の尋問技術による情報量の絞り込みに期待できることにも一定の限度がある。 結局,専門家である裁判官が適宜議論をリードして論点を整理し,効率の良い評議を実現して行くしかないように思われる。そして,論点が分かりやすく提示されていさえすれば,それなりに常識に基づいた落ち着くべきところに落ち着く評議となるものと筆者は期待している。 (追記) あるサイトで引用して頂いたようで恐縮であるが,筆者の意図していない文脈で引用されていていささか困惑している。 筆者が最後の段落で言わんとしたのは,要するに,論点が何であるか,たとえば被告人の被害者の言い分が違うのであれば,それぞれのストーリーのうちどこがどのように食い違っているのか(被害者が先に殴りかかって来たのか,被告人がいきなり刃物で刺したのか,その順序の食い違いを示す等)端的に整理して見せて,議論の枠組みの中で評議を進めるようにしてゆくべきということである。 筆者の考える裁判員評議における裁判官の役割とは,いわば議論の土俵を速やかに築き上げることであり,あとは同じ土俵で対等に議論してゆけばよいというものである。 素人が対等に議論などできないと懸念する向きもあろうが,模擬評議では裁判官はまず裁判員に意見を述べてもらおうと抑制的な態度で臨んでいる。(むしろ,プロとしての意見を差し控える余り,前記のような議論の交通整理があいまいなまま終わってしまう傾向すらあるような印象を受ける。あまりに専門的なタームで裁判員を怖じ気づかせるような態度はもちろん避けるべきであろうが,これまで実務を通じて確立されてきた注意則・経験則の観点を提示することは何ら差し支えないし,むしろ注意則などをかみ砕いて分かりやすく提示することこそ議論の実質面における職業裁判官の義務であろう。)民度という表現は余り使いたくないが,世界でも有数の識字率を誇る日本国民の事実認定力は,土俵さえ調えば職業裁判官にそれほど見劣りはしないだろう(聞くところによれば,新任判事補もベテラン裁判官も,基本的な事実認定能力はそれほど差異がないという方もいる)。 議論が落ち着くところに落ち着くとは,筆者の楽天的な,市民への信頼の表現のつもりである。
by humitsuki
| 2006-04-22 08:32
| 司法制度全般
|
ファン申請 |
||