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2010年 01月 29日
少年法の構造は,職権主義をその特徴とし,訴訟事件のような対立当事者の間で中立公正な裁判所が判断を下すというような制度ではなく,審判手続全般にわたって裁判所が責任を持ち,裁判官と少年との対話を通じて少年の内省を促し,終局処分を決するという流れを想定しているということができます。
そして,家庭裁判所に係属した少年事件については,原則として家庭裁判所調査官による社会調査(書面照会や少年及び保護者との面接調査)が行われ,家庭裁判所調査官の社会調査の中で行われる保護的措置(訓戒や奉仕活動の勧告など)で十分だと判断されれば,審判不開始決定がされてそのまま事件が終結するのに対し,権威を軽んじ内省が深まらないといった少年に対しては,審判開始決定をして審判期日を指定し,厳粛な審判廷において裁判官から直接訓戒をして,その手続の重みと法の権威をもって自覚と内省を促し,不処分又は保護処分決定に至るところ,これを筆者は「少年審判手続の感銘力」と個人的に呼んでいますが,これは前記のような職権主義を採用した少年法が期待するところであるということができましょう。 教科書的にはこのような運営が理想といえますが,このような形における審判手続の感銘力は,少年が非行事実を認めて争っていないこと(このような事件を自白事件と呼んでいます。)を前提とするものです。 では,少年が,非行事実を認めず,これを争っている場合(いわゆる否認事件)は,審判手続の感銘力はどのように扱われるべきなのでしょう? 実は,これまでの少年審判手続は,自白事件を前提としており,少年が事実関係を認めず,これを争う事態はそれほど想定していなかったようなのです。戦前の旧少年法では,行政機関である少年審判所が保護処分を決するものとされていましたが,そもそも保護処分は利益処分であるという理解とともに,否認事件は送致前の検察官の裁量で刑事手続きに振り分けられるため,否認事件というものを想定した制度設計にはなっていなかったことが窺われます。 戦後,少年事件の振り分けについては家裁先議が採られ,家庭裁判所の裁量で保護処分と刑事処分を振り分けることとしたために,少年審判手続で否認事件をも扱うこととなりましたが,制度自体は旧少年法同様,自白事件を念頭においた後見的な裁判所による職権主義的な制度設計が引き継がれることとなりました。 このような職権主義的な審判構造では,一件記録を検討して一応の心証を形成した裁判官が,「反省せよ」と迫っても,少年は「やってもいないことを反省できるわけがない」と水掛け論になって内省につながらないばかりか,裁判所が少年の責任を追及する形となって,中立公正な立場と矛盾する危うさが生じます。そこで,先の法改正では,事実認定に関して検察官関与の制度が導入されましたが,対象事件が限定されているため対象外の否認事件では問題の解決になりません。 成人刑事公判の感銘力を参考に考えると,否認事件ではあまり裁判所は説諭をせず,淡々と判決を言い渡すことが多いような気がします。これを参考に考えると,少年否認事件においても,法が本来予定しているような裁判官の人格の感化力を及ぼすと行った感銘力については,その追求を放棄するしかないと思っています。 少年否認事件における,審判手続の感銘力とは,まず第一に,少年に適正な手続の下で,十分に言い分を述べ,防御する機会を与えられたという審理過程への納得感に基づくものといえましょう。ある付添人の回顧によれば,ある否認事件で,自分に不利な証言をする親友に接して,その少年は怒るどころか,「あいつのいうことなら間違いない。あいつが嘘をつくはずない。」と漏らしていて,付添人が脱力したということがあるそうですが,必要にして十分な審理過程が持つ説得力というものを物語っていて興味深いものがあります。(弁護士である付添人が,いかに少年の言い分を真摯に受けとめ,誠実に主張立証を尽くして行くかにかかっています。) 第二に,裁判所が,少年にだまされない,ということも肝要です。これは,疑わしきは少年の利益にという適正手続原則の少年事件における反映と緊張関係に立つものですが,信用できる証拠の証明力の評価をなおざりにして少年の肩を持つ事実認定が適正手続にかなうわけではありません。権威を軽んじ,指導を聞き流して身勝手に法や規範を踏みにじる少年に対し,その嘘やごまかしを毅然と斥けることは,社会を甘く見ていた少年にわがままが通用しないことを教え,自らのあり方を省みるよう導く一助となることでしょう。「ああ,やはり嘘は通用するものではないんだな」という実感こそ,自らのあり方や責任と向かい合う第一歩となるのではないでしょうか。 結局のところ,手続と判断の説得力こそ少年否認事件の審判手続の感銘力の拠り所であり,少年の甘えやおごりを厳しく斥ける父性原理を裁判所が,それを前提として対話を通じて内省を深めるのが少年院の法務教官をはじめ処遇関係機関の役割であると割り切るのが私見であります。 #
by humitsuki
| 2010-01-29 21:47
| 少年法
2008年 03月 04日
〔以下メモ書き〕
短期1年以下の懲役に当たる罪を犯したという被疑事実で勾留された者が,捜査を遂げた結果,短期1年以上の懲役に当たる罪を犯したものとして公訴を提起され,(求令起訴されることなく)当初の被疑者勾留が被告人勾留に切り替えられた場合, (1) 保釈請求に対して,刑訴法89条1号〔被告人が死刑又は無期若しくは短期1年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪を犯したものであるとき。〕の必要的保釈除外事由があるものと認定して良いか。 (2) 勾留更新に際して,刑訴法60条2項但し書で準用する同法89条1号の勾留更新回数制限除外事由(以下,単に「勾留更新事由」という。)があるものと認定して良いか。 【検 討】 具体例としては,携帯電話の詐欺未遂で勾留された被告人が,店頭の窓口で身分証明文書として偽造運転免許証を使用していたため,偽造有印公文書行使を付加して起訴された場合や,もっと極端な例として,火事場から逃げ出すところを見つかり住居侵入で勾留された被告人が,その火事場で家人を縛り上げて金品を強取し,顔を見られて口封じのために放火して焼死させたとして現住建造物等放火,強盗殺人を加えて起訴された場合(何らかの事情で求令起訴が失念されていた場合)などが考えられよう。 もちろん,被疑者勾留は,起訴によって当然に被告人勾留に切り替わるものであり,その際,身柄拘束の当否・理由について実質的審査が加えられるものではないから,受訴裁判所〔又は裁判官〕としては,あくまで令状審査のあった被疑者勾留時の罪名を基準にして,権利保釈除外事由・勾留更新事由を審査してゆくべきであるとして,消極に解する見解が考えられる。 他方で,権利保釈除外事由・勾留更新事由は,事件単位の原則の制約があるとはいえ,現実の被告人の身柄確保の必要性(審理への出頭確保・刑の執行確保の観点からの逃亡の虞)に応じて具体的に判断されるべきところ,被告人が現実に直面している処罰の虞は起訴罪名に応じたものであるから,これに依って判断されるべきとして積極に解する見解も考えられる。 権利保釈除外事由については,注釈刑事訴訟法の該当箇所などを紐解くと,積極説によっており,おそらく実務の大勢もこれに準じた取扱いなのではないかと推察される。 そして,勾留更新事由も同様に積極説で運用するのが相当ではないかと思われる。その理由は,第一に,刑訴法60条2項但し書の勾留更新事由は,同法89条各号所定の権利保釈除外事由をそのまま準用しており,両者は統一的に解釈すべきであり,第二に,前記のとおり,勾留更新事由は,起訴罪名に応じた現実の身柄確保の必要性に応じて判断されるべきこと,第三に,受訴裁判所(又は裁判官)は,保釈審査・勾留更新審査時に,一件記録を検討して各事由の有無を判断すべきものと解すべきところ,そう解する限り裁判官の令状審査による手続的保障は保たれていることが挙げられよう。 消極説は,人権保障に手厚い側面も有する一方,起訴後は被疑者勾留時の心証を引き継いで,(その後の事情の変更だけは考慮するにしても)その上に上記各事由の判断を加えるといった考え方と整合的な一面もある。 【付 記】 以前,第一回公判期日において書証が全て不同意となり,実質的な証拠調べが始まらない段階で,検察官が接見等禁止決定の請求をした場合,公判裁判所としては不同意書証から成る一件記録を検討すべきなのか否かなのを検討しましたが,前記のような考え方を取る限り,一件記録の検討はやむを得ないという考え方を採用するのが整合的とも思われます。 接見等禁止決定に限らず,勾留更新・保釈等も,究極的には,公判での証拠調べとは別に,不同意書証を含めた疎明資料としての一件記録の精査の上で判断するのが最も論理的に一貫しているものと考えられます。もっとも,起訴状一本主義との関係で,令状審査で形成した心証を,いかに公判での心証形成から切り離すかは問題です。公判前整理手続き導入によって,やや起訴状一本主義との緊張関係も説明しやすくはなったのかな,というのが率直な感想です。 #
by humitsuki
| 2008-03-04 21:51
| 刑事法
2007年 11月 07日
先日,某地裁本庁において行われた,強盗致死事件の裁判員模擬裁判を見学する機会がありました。事案としては,一般に「鈴木一郎事件」と俗称されているもので,地方からアーティストを夢見て上京してきた当時20歳の被告人が,生活費にも窮した挙げ句,タクシー強盗を試みて運転手をナイフで刺して死なせてしまうというものです。
結論としては,酌量減軽の上,懲役28年(求刑:無期懲役)だったのですが,その結論に至る経緯で目を引いたのは,職業裁判官の方々のご意見の内容でした。 ある裁判官は,被告人はまだ若いところ,40代で出られるような量刑にしないと,更生の意欲も失ってしまうかもしれない,という趣旨の発言をしておられたのが,特に印象に残っているのですが,特に被告人の更生といった面が強調されるうちに有期懲役刑に減軽する方向で議論が方向付けられました。 これまで,量刑相場というのは,応報刑論を柱にして予防の見地を加味しつつ調整するという刑法理論を背景に,まず,犯行動機,犯行態様,結果といった過去に何をしたのかという客観的な観点から量刑の幅が大体画され,その中で更生環境や更生意欲などを含めた雑多な一般情状で微調整するという感覚だったのではないかと理解してきていました。そして,被告人の更生の意欲や見通しといった要素単体で,無期懲役刑か有期懲役かといった刑種の選択まで左右されることはまず希だったのではないかという実感の中で,上記のような議論を職業裁判官がしていることに強く興味を引かれました。 このような議論が許容された背景としては,いくつか理由の考えられるところですが, 1 もともと,無期か有期かという極限の量刑では,被告人の更生といった特別予防的要素も相当の重みをもって刑種の選択に影響していた(つまり筆者の見込み違い) 2 裁判員裁判では,一般人の常識的感覚(無期では更生の意欲を失ってしまうので,有期にして立ち直る余地を与えるのが被告人のためではないか等)をむげに否定することは許されず,裁判官の隠れた量刑理論も(無意識的に)変容を余儀なくされた。 3 平成16年の法定刑引き上げで,有期懲役刑の上限は20年から30年にまで引き上げられているところ,このような長期の量刑では,被告人の更生の見込み・意欲といった要素も次第に重みを持って判断に影響する。 といったことが考えられますが,まだ何ともいえないところです。 #
by humitsuki
| 2007-11-07 07:17
| 刑事法
2007年 03月 17日
(以下雑記)
裁判員裁判を見据えて職業裁判官と市民の量刑感覚を分析した司法研究も間もなく上梓されるものと思われるが,筆者が模擬評議などを拝見して得た印象を踏まえても,得てして一般人は特定の量刑因子に重きを置いて刑を量定する傾向が顕著であるといえよう。 そして,これまでの模擬評議では,裁判官が他の事情も指摘して,総合的な判断をするようにそれとなく促すといった流れが大方であったのではあるまいか。このような傾向は,専門家と非専門家の協働という裁判員制度の本質から不可避であって,今後ともどうようの場面が見られるだろう。 たとえば,「振り込め詐欺などの同種事犯が多発している。」「被告人は十分に反省しており,また犯罪を犯すとは考えられない(あるいは,規範意識の乏しさが顕著で,また犯罪に及ぶ可能性が高い)。」といった事情を極端に重視して,量刑相場を大きく離れて処断刑の上限ないし下限近い量刑を主張するなどである。 もっとも,それらの量刑因子にそれだけの決定的な重みを与えて評価すべきでないという価値判断には,単に総合評価に止まらない意味があるように思われる。 すなわち,「同種事犯が多発しているから厳刑を」という考え方は,刑の威嚇力を主に考える一般予防論に整合的な考えであるし,「被告人の規範意識」を重視する考え方は,特別予防や社会防衛論につながる考え方とも取れる。 これに対して,従来の実務は,あくまで動機・経緯,犯行態様,結果など過去の犯情を回顧的に評価するという手法を取っているが,これは基本的に相対的応報刑論に積極的一般予防論を組み合わせた刑法理論が背景にあると考えることもできるものであった。 裁判員制度による国民の司法参加に意味があるのであれば,それは各量刑因子の比重にとどまらず,なぜそのような量刑因子を重視するかの説明を通して背後にある刑罰の目的論まで踏み込んだ議論が必要なのではあるまいか。 これまで「裁判官の量刑は軽すぎる」旨の批判があったにも拘わらず,裁判員制度はこれまでの刑事裁判を概ね妥当な運用がなされてきたとの評価を前提に,国民の感覚を量刑に反映することをも主眼としているのであるが,市民感覚を量刑に反映させるというのであれば,結論だけでなくその背後にある刑罰の目的論にまで立ち入って従前の量刑相場や実務の考え方を明らかにして国民の批判を仰ぐべきではないかと思う。 「量刑は刑法理論の縮図」とまで言われているが,そうなると(意識的にせよ,無意識的にせよ)実務の依ってきた刑法理論について,健全な国民の法感情による批判的検討は避けがたいし,避けるべきでもあるまい。 このような考え方を取ると,刑罰の目的論を含んだ法令解釈権が裁判所の専権とされていることとの関係が問題となり得よう。裁判員法は量刑に関して裁判員の関与を認めるが,そこにおける刑罰の目的論を含んだ刑法理論の対立は,職業裁判官の刑事実体法の解釈理論にも徐々に大きな影響を及ぼすことも,あり得ないではない。 #
by humitsuki
| 2007-03-17 14:11
| 刑事法
2006年 12月 21日
「ロースクール 未修者は,6~7年制にすべき by米倉明教授@戸籍606号75頁」
基本的に新規学卒者しか労働市場のなかった我が国では,大卒後6年も7年も経ってから法曹にもなれないとすると,完全に社会から脱落者の烙印を押されかねません。(最近ではそれなりに事情も変わっているようですが,社会でのキャリアのない院卒がどれほどの厚遇を受けられるのか,疑問があります。) 法曹の「質」なるものを,法科大学院における教育課程を強制するという「規制」によって確保しようと言う,有る意味時代の流れに逆行する話の一環ではありますが,仮にそのような規制が法曹の質確保のために必要だとしても,法曹育成のためのカリキュラムを受ければ良いのであって,最低でも何年以上は法科大学院での教育環境に浸からなければ良い法律家にはなれないという話ではなかったと思われます。 そうすると,まず大学の法学部を廃止して法科大学院(もはや大学院ではないが)に一本化し,卒業年度も規制しないで完全に単位制にでもしなければ,まともな人材を法曹界に確保することすら難しくなるんじゃないですかね。最終的に法律家を新司法試験というテストで選ぶ以上は,良い法曹になるのに「必要な」だけの単位を取得し,学部試験と新司法試験をクリアしさえすれば,何年間ロースクールにいたかということは無関係に,規制の目的は達せられましょう。 もっとも,6,7年かけなければ到底消化しきれないような必修単位を課すこと自体に,今度は無理が生じてきそうですが。 #
by humitsuki
| 2006-12-21 12:54
| 司法制度全般
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